太平洋戦争

長いようで短い?短いようで長い?太平洋戦争の流れが分かる簡単年表

日本海軍の攻撃で炎上する戦艦「アリゾナ」

太平洋戦争、漠然と長期にわたった戦争のように感じますが、時系列で追ってみると意外と短かったように感じます(あくまでも個人の感想です)。

太平洋戦争の開戦日を起算日として、太平洋戦争が始まる前から終戦までを、主だった出来事を中心に簡単に振り返ってみたいと思います。
※日本海軍視点が多いです


Xデイ-829日~ 太平洋戦争開戦まで

凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日)
Bundesarchiv, Bild 101I-126-0347-09A / Gutjahr / CC-BY-SA
凱旋門を通るドイツ軍(1940年6月14日)

Xデイ-829日

1939年(昭和14年)9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻をきっかけに、第二次世界大戦が勃発
太平洋戦争も第二次世界大戦のひとつですが、日本が第二次世界大戦に参戦するのは、開戦から2年以上経過してからになります。

Xデイ-534日

1940年(昭和15年)6月22日、フランスがドイツに降伏します。

Xデイ-437日

同年9月27日、「日独伊三国同盟」調印
昭和天皇がアメリカへの全面戦争へつながる懸念を表明するなど、反対するひとたちも数多くいましたが、「バスに乗り遅れるな」というマスメディアによるスローガンが展開。国内世論も同盟締結に傾きました。

Xデイ-169日

翌1941年(昭和16年)6月22日、ドイツ軍がバルバロッサ作戦発動。独ソ不可侵条約を破棄してソ連に侵攻を開始します。
同年10月2日(Xデイ-67日)にはモスクワ総攻撃を開始します。

Xデイ-51日

ドイツのモスクワ総攻撃開始から間もなく、日本では第三次近衛内閣が総辞職し、同年10月18日に東條英機内閣が発足しました。

第三次近衛内閣当時、陸相を努めていた東條英樹は開戦強硬派でしたが、首相任命後は一転して昭和天皇の意向に沿い、戦争回避に全力を尽くしました。
しかし、組閣から僅か39日目に「ハル・ノート」が提示され和平交渉を断念、対米開戦を決意するに至ります。

この時点では誰が首相になっても、戦争は不可避だったと思います


Xデイ+179日ごろまで:開戦~日本軍の優勢期

空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆
空母ホーネットに急降下爆撃中の九九艦爆

Xデイ±0日(当日)

1941年(昭和16年)12月8日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争が勃発。
(南方作戦のマレー半島上陸作戦が先との意見もあります)

奇しくも同日、ヨーロッパではモスクワでロシア軍の反撃を受け、モスクワ攻撃中止の命令が出された日でした。

Xデイ+131日

同年4月18日、米軍が空母から陸上機(B-25)を発艦させる強硬策を用い、日本本土を空襲(ドーリットル空襲)
この空襲をきっかけに、次期作戦で揺れていた日本軍は、ミッドウェーおよびアリューシャン攻略で一本化します。
(哨戒線をより東側に設定し、日本本土に接近する米艦隊への警戒を強めるため)

Xデイ+179日

同年6月5日、ミッドウェー海戦が勃発
7日までの戦闘で日本軍は空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻をはじめ、重巡「三隈」を喪失。多数の空母艦載機や搭乗員も失う大打撃を被り、以降積極的な攻勢が取れなくなります。

Xデイ+256日

同年8月21日、一木支隊先遣隊によるガダルカナル島奪回作戦が決行。
結果は御存知の通り失敗に終わり、以降撤退作戦が開始される翌1943年(昭和18年)2月までの約170日間、同島を巡って消耗戦に突入します。

Xデイ+322日

同年10月26日、ガダルカナル島近海の制海権、制空権を巡って「南太平洋海戦」が勃発
空母同士の戦いで、日本軍は空母「翔鶴」「瑞鳳」、重巡「筑摩」が損傷するも喪失艦なし。一方米軍は空母「ホーネット」沈没、空母「エンタープライズ」が損傷など、日本軍が勝利を収め、一時的に米軍の稼働空母を0隻にすることに成功します。

しかし日本軍も空母艦載機や搭乗員の消耗が大きく作戦継続が不可能となり、制海権・制空権の確保には至りませんでした。(戦術上は勝利、戦略上は敗北)
本海戦が、日本機動部隊による最後の勝利になります。

開戦からまだ1年経過していない段階で、日本軍は攻勢限界点を迎えます


Xデイ+420日~:太平洋戦争の攻守転換期

山本生前最後の写真
山本生前最後の写真

Xデイ+420日

1943年(昭和18年)より、日本軍が攻勢から防戦に転じます。

同年2月1日のガダルカナル島撤退作戦が開始され、7日の第三次撤収までの計3回実施されました。
一木支隊先遣隊の奪回作戦開始から2月7日の撤退終了まで170日間(約半年弱)、ガダルカナル島を巡る戦いは終了しました。

Xデイ+496日

同年4月18日、「山本五十六」連合艦隊司令長官が、前線を視察中に搭乗機が撃墜され戦死します(海軍甲事件)。

Xデイ+537日、+598日~

ミッドウェー海戦(MI作戦)と同時並行されたAL作戦。
この戦いで確保されたアッツ・キスカの両島ですが、5月29日にアッツ島守備隊が玉砕、7月29日にキスカ島撤退作戦が実施と、占領から約1年で米軍に奪回されることになりました。

Xデイ+639日

ヨーロッパに目を向けると同年9月8日、イタリアが降伏します。

Xデイ+715日

同年11月23日、ギルバード諸島のマキン・タラワ島守備隊が玉砕

ソロモン諸島(ガダルカナル島を巡る戦いなど)、アリューシャン諸島(アッツ・キスカ島)で勝利を収めた米軍が、中部太平洋侵攻の最初の矛先とした戦いです。
日本軍に対し多数であたった米軍ですが人的損害も大きく、このときの戦訓が以降の島嶼戦に活かされました。

開戦から2年経たずに各方面で前線が押し戻され、米軍の攻勢もペースアップしていきます


Xデイ+800日~:日本軍の壊滅

10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和、榛名、金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。
10月22日、ブルネイを出撃する栗田艦隊。右の長門の前方が武蔵で、そこから奥に向かって大和榛名金剛と、高雄型重巡洋艦4隻。
The Japanese Center Force leaves Brunei Bay, Borneo, on 22 October 1944, en route to the Philippines. Ships are, from right to left: battleships Nagato, Musashi and Yamato; heavy cruisers Maya, Chokai, Takao, Atago, Haguro and Myoko. Courtesy of Lieutenant Tobei Shiraishi. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.

Xデイ+801日

1944年(昭和19年)2月17日、日本海軍の一大泊地、トラック島が空襲を受けました。

危険を察した日本海軍は、主だった戦闘艦艇は後方に下げていたものの、軽巡3隻と駆逐艦4隻のほか、各種の特設艦艇や輸送船など34隻が沈没。特に商船の沈没トン数は約20万トンに及び、以降の作戦に大きな影響を与えました。

また、多数の航空機や軍需物資も消失。地上施設も破壊され、トラック泊地は根拠地としての機能を喪失しました。

Xデイ+924日

同年6月19日、マリアナ沖航空戦が発生。
同方面に来航した米機動部隊を、第一航空艦隊(基地航空隊)と第一機動部隊(空母艦隊)で迎撃する計画でした(「あ」号作戦)。

しかし、前述のトラック空襲以降、マリアナ諸島、パラオ諸島、ニューギニア方面において米空母部隊や陸上基地部隊との連続した航空戦により、第一航空艦隊の戦力は「あ」号作戦前に戦力を消耗してしまいます。

結果としてほぼ第一機動部隊のみで米機動部隊と艦隊決戦を行うこととなり、兵力で劣る日本軍は艦載機の航続距離を活かした「アウトレンジ」作戦を用いて攻撃しますが、米軍側の迎撃体制が有効に働き、目立った損傷を与えらませんでした。

反対に空母「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」が沈没、航空兵力も400機以上を失う大敗を喫し、この戦い以降、日本軍は空母機動部隊の運用が不可能になります。

Xデイ+1050日

マリアナ沖航空戦から僅か126日後の10月23日、レイテ沖海戦が発生します。

前述の通り、航空戦力の大半を失った日本軍は、基地航空隊を中心に再編成を図ります。
しかしレイテ沖海戦の11日前に発生した台湾沖航空戦をはじめ、米陸軍航空隊や米機動部隊による事前の航空戦により、またも決戦前に航空戦力を著しく減じてしまいます。

日本海軍は栗田艦隊を中心とした水上艦艇による殴り込みを実施。
敵上陸部隊を乗せた輸送船団の殲滅を図りますが、一連の戦いで、戦艦「武蔵」「扶桑」「山城」の3隻、空母「瑞鶴」「瑞鳳」「千歳」「千代田」の4隻、重巡「愛宕」「摩耶」「鳥海」「最上」「鈴谷」「筑摩」の6隻、軽巡4隻、駆逐艦11隻などを喪失。

ここに日本海軍は壊滅し、組織的な艦隊運用自体が不可能になります。

Xデイ+821日~+939日

日本陸軍に目を向けると、同年3月8日に有名な「インパール作戦」が開始され、約4ヶ月後の7月4日に作戦中止。

絶対国防圏が崩壊。マリアナ陥落によりB-29による本土空襲が射程範囲に、フィリピン陥落により南方資源輸送も困難となり、銃後の人たちも最前線に立たされます


Xデイ+920日~:日本本土への空襲本格化

テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29
テニアン島の飛行場から次々と出撃するB-29

Xデイ+1082日

1944年(昭和19年)11月24日、マリアナ諸島より飛び立ったB-29により東京初空襲が行われました。これ以降日本本土への空襲が本格化します。

B-29による本土空襲は1945年から本格化し、3月10日東京大空襲をはじめとして、日本各地で多大な被害を被ることとなります。

参考:未来に残す 戦争の記憶:年表で見る空襲

初めての日本本土空襲(※)は、1944年(昭和19年)6月15日(Xデイ+920)の八幡空襲です。
九州の八幡製鉄所を目標としたもので、中華民国の成都を飛び立ったB-29により行われました。
※ドーリットル空襲など、米空母艦載機からの空襲は除く


Xデイ+1168日~:終戦に向けて

降伏文書調印 東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上 1945年9月2日 中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣 その左後方に侍しているのは加瀬俊一
降伏文書調印 東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリ上 1945年9月2日 中央で署名を行っているのは重光葵外務大臣 その左後方に侍しているのは加瀬俊一
http://ww2db.com

Xデイ+1168日

1945年(昭和20年)2月18日、米軍が硫黄島に上陸し、硫黄島の戦いが始まります。
硫黄島が陥落する3月26日までの36日間で、日本軍守備隊は約95%(19,900名)が戦死または行方不明。一方の米軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の計28,686名の損害を受けた。
太平洋戦争後期の上陸戦で、米軍攻略部隊の損害実数が日本軍を上回った数少ない戦いです。

Xデイ+1210日

それから僅か42日後の4月1日(Xデイ+1210日)、沖縄戦が開始されます。
組織的な抵抗は6月23日までの42日間に及び、沖縄戦での被害者数は約20万にも及びます。

連合国軍の沖縄戦終了宣言は7月2日、最終的な沖縄守備隊の降伏調印式が行われたのは9月7日です。

Xデイ+1216日

同年4月7日には坊ノ岬沖海戦が勃発。
特攻の海上版と言われる戦いで、戦艦「大和」をはじめ、軽巡「矢矧」、駆逐艦「磯風」「浜風」「霞」「朝霜」が戦没します。

余談ですが、第二艦隊司令長官の「伊藤整一」大将は、坊ノ岬沖海戦で攻撃命令を指示した米司令官「レイモンド・スプルーアンス」提督と深い親交があったそうです。

Xデイ+1246日

同年5月7日、ヨーロッパではドイツが降伏します。

Xデイ+1346日

同年8月15日、昭和天皇による玉音放送
前日の8月14日にポツダム宣言を受諾しています。

Xデイ+1364日

同年9月2日、降伏文書に調印、太平洋戦争が終結します。

終戦日は8月15日の印象が強いですが、事実上の日本が降伏した日はポツダム宣言を受諾した8月14日。この日をもって第二次世界大戦が集結しています。


最後に

靖国神社
靖国神社。管理人撮影

太平洋戦争の時系列を振り返ろうと思ったきっかけは、日本本土への空襲が開戦間もなく行われていたような趣旨で語られていたのを、テレビで見たからです。

実際は終了日を玉音放送日(8月15日)、「八幡空襲」を起算日にすると、1944年(昭和19年6月15日)からの426日間、「東京初空襲」を起算日にすると、1944年(昭和19年)11月24日からの246日間です。

ドーリットル空襲を起算日にすると間違いではないですが、空襲が本格化したのは1945年からなので、3年強空襲が続いたという趣旨はちょっと違うかなと思いました。

ただし、連日のように多数の空襲が行われ、多くの人が被災され、亡くなられたのは事実です。
その方々にとっては幾万日にも感じることだっただろうと思います。

戦争によって被害にあわれた全ての皆さまに哀悼の意を表します。


日本軍が快進撃を続けていた期間はミッドウェー海戦までの約半年間、主導権を握れていたのも南太平洋海戦までの約1年間と、日本軍が善戦を続けていた期間もかなり短いです。

1940年(昭和15年)、当時の近衛文麿首相から対米戦に対する意見を求められた際、「半年や1年の間は暴れてご覧にいれるが、2年、3年となるば全く確信は持てない」と答えた山本五十六長官の見通し通りです。

ミッドウェー海戦後に空母を量産したら…も、米軍の進行速度は日本に回復させる余地を与えないもので、空母量産どころか、飛行機の生産や搭乗員の教育も間に合わないスケジュールですね。

雲龍
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参考:太平洋戦争 簡単年表

今回使用した太平洋戦争-簡単年表。管理人作成

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てんこ

40代シンパパ。マーケティングリサーチャー。小学校高学年で光栄「三国志」にハマり、「提督の決断」にも手を出し、高校時代から架空戦記が愛読書。戦記物が大好き。歴史大好き。バンドにもハマって今でもBassが心の友。空き時間で資格勉強中(取得済:メンタルヘルス・マネジメント検定Ⅱ種・Ⅲ種)。老後を見据えた趣味として、歴史に関する考察などを書いていきたいです。

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