太平洋戦争

『雲龍型航空母艦』|飛龍型をベースに設計した謎に関する考察

2022/07/27

雲龍

太平洋戦争中、航空母艦(空母)の大量建造計画を立てた日本海軍。
その設計元に選ばれたのは、搭載機数の多い翔鶴型ではなく、重装甲化した最新鋭の大鳳型でもなく、約10年前に設計された飛龍型でした。

当初の建造計画(⑤計画概案)で、大鳳型航空母艦3隻が盛り込まれていましたが、計画見直しや追加が発生。先行して急ぎ中型空母1隻「雲龍」の建造が決定したものの、そのときに中型空母の設計図は「飛龍型」のものしかなかった、というのが主な理由です。

それでは雲龍型の建造に至る経緯と、雲龍型に対する不満点を見ていきましょう。


「雲龍型」建造に至る経緯

雲龍
竣工直前の雲龍(1944年7月16日)

1941年(昭和16年)度、第五次海軍軍備充実計画として、⑤計画(まるごけいかく)・⑥計画(まるろくけいかく)の二段階に分け、昭和17年から昭和25年までの9ヶ年で次の艦船数を建造する予定でした。

第五次海軍軍備充実計画の建造予定艦船

  • ⑤計画:戦艦3隻、超巡洋艦2隻、航空母艦3隻、巡洋艦9隻、駆逐艦32隻など合計159隻
  • ⑥計画:戦艦4隻、超巡洋艦4隻、航空母艦3隻、巡洋艦12隻、駆逐艦34隻など合計197隻

昭和16年8月15日、日米開戦が決定的になったこともあり、⑤計画を前倒しする形で、昭和一六年度戦時艦船建造及航空兵力拡充計画(通称:マル急計画)を策定、中型空母1隻を建造することになりました。

この時、新型中型空母の設計はほとんど進んでいなかったため、「飛龍型」の設計を流用して建造を行うことに。これが「雲龍型」です(計画番号:G16型。計画艦番:第三〇二号艦)。

飛龍型と雲龍型の大きな相違点は艦橋の位置です。飛龍型の艦橋は左舷側にありましたが、雲龍型では右舷側に置かれています。

「飛龍」はワシントン海軍軍縮条約の制限を受けていた「蒼龍」をもとに、拡大設計した艦


昭和16年度に計画された⑤計画ですが、太平洋戦争の開戦やミッドウェー海戦における航空母艦4隻の喪失など、戦局の変化に対応した軍備計画の見直しが求められました。これを受けて⑤計画を修正したものが改⑤計画です。

航空母艦の建造内訳

  • ⑤計画:大鳳型に次ぐ装甲空母(G14型)3隻。最終的にG14型1隻、中型空母2隻の計3隻に
  • マル急計画:航空母艦1隻「雲龍」(G16型)
  • 改⑤計画:改大鳳型(G15型)5隻、飛龍(雲龍)型4隻、改飛龍(改雲龍)型9隻の計14隻

不満点①:搭載機が少ない

エセックス級空母「レキシントン(CV-16)」。1943年11月12日撮影

雲龍型の搭載機数が、翔鶴型やアメリカ空母と比較して少ない点が挙げられます。

雲龍型の搭載機数は計画(常用)57機。飛龍型と同数ですが、同世代の空母と比較すると、翔鶴型は常用72機、アメリカのエセックス級は100機前後と、1.25~1.75倍ほど差があります。
ただし、そもそも船体の大きさが異なっており、17,480トンの雲龍と、25,000トンを超える翔鶴型やエセックス級と比較すること自体が誤りだと言えましょう。

改めて飛龍型と雲龍型の搭載機数を比べてみましょう。
先ほど雲龍型と飛龍型の搭載機数は同数の計画(常用)57機と書きましたが、補用機の搭載機数は異なっています。
計画では、雲龍型は常用57機+補用8機の計65機、飛龍は常用57機+補用16機の計73機と、8機の差があります。

この補用機の差は主に2つの考え方があります。
ひとつは計画時の搭載機の機種が異なる(新しくなるほど飛行機は大型化する傾向がある)ため、格納庫などスペースの都合上で搭載できる機数が減ったこと。
もう一つは補用機の搭載機数が、補用機を分解・搭載する(できる)限界の機数を指しているのか、編成上の定数を指しているのか、です。

飛龍型は計画時「常用+補用=定数73機」ですが、太平洋戦争開戦時の定数は「常用54機+補用9機=定数63機」になっていることから、平時と戦時で定数の考え方が異なっています。
補用機の搭載機数が、編成上の定数の話であれば、飛龍型と雲龍型に艦載機搭載能力の差がなかった可能性は高そうです。


不満点②:新型機が運用できない

雲龍竣工当時、空母搭載機はこれまでの九九艦爆、九七艦攻から彗星や天山といった機種に置き換わっていきました。
飛龍設計時は零戦も登場しておらず、まだ複葉機が主役の時代でした。搭載機も徐々に進化していき、それに伴い機体の大きさも増していきました。
そのため、飛龍型と同サイズのエレベーターでは、彗星や天山などをエレベーターに載せられない(=飛行甲板と格納庫を行き来できない)のでは?という意見があります。

新型機のほうが機体サイズが大きくなりますが、空母搭載を前提にした機種は、設計時点でサイズも要求事項に盛り込まれているため、エレベーターの大きさが運用の障害になった可能性は低そうです。

例:艦上爆撃機九六式艦上爆撃機九九式艦上爆撃機彗星
全幅11.40m14.360m11.50m
全長9.40m10.185m10.22m
全高3.40m3.348m3.53m
九九式艦爆は主翼の折りたたみ機構があり、折りたたむと全幅7.3mに。
彗星は主翼の折りたたみ機構がないため、全幅が短く設計されています

そのエレベータの大きさや基数は飛龍から見直されており、大型化する新型機にも対応できるよう拡大されています。

エレベーターの変更点

  • 飛龍:エレベーターは3箇所。前方から16×12m、12×11.5m、10×11.8m
  • 雲龍:飛龍から中央エレベータが廃止されて3基から2基に減少。前部は14x14m、後部は14x13.6m


新型機の運用は、搭載機の大型化やエレベーターの大きさよりも、「飛行甲板の長さ」に問題がありそうです。

雲龍の飛行甲板の長さは飛龍と同じ216.9m。翔鶴・瑞鶴は242.2m、大鳳は257.0mです。
新型機の中で、最も長い発艦距離を必要としたのは、魚雷を装備した艦上攻撃機「天山」です(必要発艦距離:約180m)。
雲龍から天山が発艦する場合、天山を駐機できるスペースが飛行甲板後方の36.9mしかありません。
※飛行甲板の長さ216.9m - 発艦距離180m = 駐機スペース36.9m

マリアナ沖海戦で使用された天山一二型の全長は10.865m。飛行甲板上に一度に並べられる(=第一波として同時に使用できる)のは、雲龍1隻あたり6~9機が限度でしょう。

日本海軍 翔鶴型航空母艦『瑞鶴』、映画「雷撃隊出動」のワンシーン

真珠湾攻撃時の第一次攻撃隊として、飛龍1隻から発艦した艦上攻撃機「九七式艦攻」は18機でした。それと同数の艦攻「天山」を雲龍型から発艦させるとなると雲龍型が2隻必要になります。
空母搭載機の大型化に伴う弊害は、搭載機やエレベーターのサイズよりも、機体重量の増加に伴う発艦距離の延伸が大きいと思います。

※日本海軍が「カタパルト」や「ロケット補助推進離陸装置」を実用化できなかったことも原因のひとつです。


不満点③:建造期間が長い

建造中の「笠置」。佐世保エビス湾にて(1945年11月)
「笠置」。佐世保エビス湾にて(1945年11月)

雲龍の竣工は1944年8月。マリアナ沖海戦(1944年6月)やレイテ沖海戦(1944年10月)に間に合わなかったことが、戦時急造空母としての評価を下げる一因に挙げられます。

④計画の大鳳は1944年3月竣工と、訓練期間が十分ではないものの、マリアナ沖海戦にかろうじて間に合いました。
雲龍はマリアナ沖海戦には間に合わず、レイテ沖海戦前には竣工できたものの、搭載できる飛行機がなく、レイテ沖海戦には参加できませんでした。

太平洋戦争後半の2つの大きな海戦に間に合わなかったことから、「工期が長い(工数が多い)=戦時急造空母に相応しくない設計」と評価されていますが、実際の建造期間(起工日~竣工日まで)を比較すると、雲龍型の工期は今までの空母よりも大幅に短縮されています。

大型空母の翔鶴型や大鳳型よりも工数が少ないのは当然としても、飛龍よりも約一年(356日)短縮できています。

起工日進水日竣工日建造日数
飛龍1936/7/81937/11/161939/7/51.092
翔鶴1937/12/121939/6/11941/8/81,335
瑞鶴1938/5/251939/11/271941/9/251,219
大鳳1941/7/101943/4/71944/3/7971
雲龍1942/8/11943/9/251944/8/6736
天城1942/10/11943/10/151944/8/10679
葛城1942/12/81944/1/191944/10/15677
飛龍以降の空母建造日数

史実上最期の空母同士の決戦となったマリアナ沖海戦に間に合わなかったことは致命的かもしれません。
ただ、当時の日本の建造能力を考えると、大鳳以降に建造開始した艦を、マリアナ沖海戦以前に竣工させることは難しかったのではないかと思います。


まとめ

マル急計画により、計画名どおり急遽建造が決まった中型空母=雲龍型。

④計画(空母「大鳳」や戦艦「信濃」、巡洋艦「阿賀野型」、駆逐艦「陽炎型」「夕雲型」「秋月型」など)が進捗半ば、新たに策定・改定された改⑤計画が控えており、更にはその2つの建造計画の間にこのマル急計画の他、マル臨計画・マル追計画なども決定し、大量の艦船建造を推進中でした。

当初、中型空母は新規設計の予定がその余裕もなく、飛龍型の設計図を流用せざるを得ない状況下でしたが、懸念の建造期間も大幅に短縮して竣工させることができました。

より工期の短い戦時急造型の中型空母を設計できたとしても、その設計期間によって竣工までのトータルの工期が延びることを考えると、どちらを選択しても、新しい空母を必要とした局面に間に合わせることはできなかったでしょう。

空母艦載機の運用能力は飛龍型とほぼ同数で、「戦時急造型だから運用能力」が低下した、ということはなさそうです。
ただしその飛行甲板の大きさから、運用機種や数(一度に発艦できる数)に制限がかかった可能性は高いと思います。

もしも戦局に影響を与えられる段階で竣工している、となると1942年10月の「南太平洋海戦」以前でしょうか。
④計画時に中型空母1隻を盛り込み、大鳳と同時期に建造を開始できたとしても竣工は1943年7月。無理ですね…

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てんこ

40代シンパパ。マーケティングリサーチャー。小学校高学年で光栄「三国志」にハマり、「提督の決断」にも手を出し、高校時代から架空戦記が愛読書。戦記物が大好き。歴史大好き。バンドにもハマって今でもBassが心の友。空き時間で資格勉強中(取得済:メンタルヘルス・マネジメント検定Ⅱ種・Ⅲ種)。老後を見据えた趣味として、歴史に関する考察などを書いていきたいです。

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