はじめに
「金剛型」戦艦といえば、日本海軍の中で最も活躍した戦艦達です。
太平洋戦争開戦時には艦齢30歳近くを迎えており、一線で活躍できる耐用年数を優に超えていました。
最高速力は30ノットを超え、水雷戦隊や空母に随伴できる高速性能に加えて、喪失しても惜しくない戦艦(主力部隊ではなく警戒部隊での運用)ということもあり、太平洋戦争中に温存された他の戦艦と比べると積極的に運用された背景もあります。
そんな歴史を持つ「金剛型」にも、実は代艦計画がありました。
大和型に次ぐ新鋭艦として参戦する可能性もあった金剛代艦の、歴史的背景とその計画案について振り返ってみようと思います。
計画の背景
八八艦隊計画案を推進していた日本海軍。
ワシントン海軍軍縮条約の締結により、長年の夢であった八八艦隊計画案も廃案になりました。
八八艦隊計画案(戦艦のみ抜粋)
- 艦齢8年未満(0~7年)の戦艦8隻と巡洋戦艦8隻の計16隻を常備
- 艦齢が8年を越えた艦も廃艦とせず、主力艦運用年数の24年まで保有
- 八四艦隊案(大正五年度計画)の「長門」から始まり、八八艦隊案(大正九年度計画)までで「紀伊型」「十三号型巡洋戦艦(または第八号艦)」の全艦予算が成立
- 最終的な計画艦は以下の16隻(長門、陸奥のみ完成。加賀、赤城は空母改装、土佐は標的艦に)
- 長門型戦艦:長門、陸奥
- 加賀型戦艦:加賀、土佐
- 天城型巡洋戦艦:天城、赤城、高雄、愛宕
- 紀伊型戦艦:紀伊、尾張、第十一号艦、第十二号艦(紀伊、尾張まで建造命令発令)
- 十三号巡洋戦艦(または第八号型):第十三号艦、第十四号艦、第十五号艦、第十六号艦
「金剛」の竣工は1913年(大正2年)8月。ワシントン軍縮会議条約は1923年(大正12年)8月に発効された当時、すでに建造から10年が経過していました。
ワシントン軍縮会議条約において、戦艦保有数と新規建造は制限されていましたが、「10年間は主力艦(戦艦及び空母)の新艦建造禁止。ただし、艦齢20年以上に達した艦を退役させる代替として、条約の範囲内(基準排水量35,000トン、主砲口径16インチ以下)で代艦の建造が可能」という例外条件があったのです。
建造禁止期間が明ける1933年(昭和8年)に、艦齢20年に達する金剛型の代替を検討・建造するよう、1928年(昭和3年)に海軍大臣に報告書が提出されました。
しかし1930年(昭和5年)にロンドン海軍軍縮条約が締結。主力艦の建造禁止期間が5年延長(10年間から15年間に)されたため、金剛代艦が建造されることはありませんでした。
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設計案
金剛代艦の設計案は2つあり、正式なものは「藤本案」とされています。
設計名 | 藤本案計画時(艦政本部案) | 平賀案計画時(私案:設計X) |
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設計者 | 藤本喜久雄 海軍造船大佐 | 平賀譲 海軍造船中将 |
基準排水量 | 35,000トン | 35,000トン |
全長 | 237m | 232m |
全幅 | 32m | 32m |
機関 | 73,000馬力 | 80,000馬力 |
最高速力 | 26ノット | 26.5ノット |
主砲 | 40cm三連装砲 3基9門 | 40cm連装砲2基、三連装砲2基 計10門 |
副砲 | 15cm単装砲12門 | 15cm単装砲16門 |
機関砲 | 12.7cm連装高角砲8門 | 12.7cm連装高角砲8門 |
魚雷 | 61cm固定式発射魚雷艦2門 | 61cm固定式発射魚雷艦2門 |
航空機 | 2機 | 2機 |
射出機 | 1基 | 1基 |
全長232~237mと、長門型戦艦(建造時215.8m、大規模改装後224.9m)より一回り長く、加賀型戦艦(234m。空母加賀の場合は238.5m)とほぼ同等の長さです。
主砲は条約制限内で最大の口径サイズを採用している点は同じですが、連装砲のみとオーソドックスな藤本案に対し、平賀案は連装砲と三連装砲を混在させています。
個人的に着目したのは、両案ともに最高速力が26ノット台と今見ると少し控えめな印象です。当時の長門型戦艦の最高速力が26ノット(公表は23ノット)であり、おそらくそれに合わせたものではないかと考えます。
最後に
金剛代艦計画は、ロンドン海軍軍縮条約が締結された結果、実現することはなくなりました。
八八艦隊計画の後に計画された金剛代艦ですが、その設計思想には迷走がみられます。
前述の通り、(天城・赤城は設計済み、高雄・愛宕は修正予定)、「紀伊型」が設計段階、「十三号型巡洋戦艦」に至っては未計画でした。
次に建造される「大和型戦艦」まで約10年の空白期間があり、金剛代艦が計画・設計で終わったとはいえ、ここで培われた経験は、大和型戦艦に継承されたと思います。
また、「金剛」といえば30ノットを誇る高速戦艦のイメージが強いですが、実は竣工時27.5ノット、第一次改造後は26ノットにまで低下しています。
ロンドン海軍軍縮条約締結後の第二次改装(1935年(昭和10年)6月~1937年(昭和12年)1月)において、速力30.3ノットまで向上し、高速戦艦と称される速力を得ることになります。
前述の通り、金剛代艦計画時の速力は26ノット台と中速戦艦に留まっています。もし金剛代艦が建造されていた場合、太平洋戦争開戦までの期間に改装が実施される可能性は低く、日本海軍が30ノットを超える高速戦艦を保有することはなかったように思います。
金剛代艦が建造されずに最古参の高速戦艦を保有していたことも、空母機動艦隊の構想と積極的な運用、そして開戦初頭の戦果に一役買ったのかもしれませんね。