ネームシップ『睦月』から始まり、全12隻が建造されました。
順番に『睦月』『如月』『弥生』『卯月』…と続くことから、旧暦の月名(和風月名)で統一されているように思えますが、その規則性は後半で失われています。
睦月型駆逐艦 全12隻
睦月、如月、弥生、卯月、皐月、水無月、文月、長月、菊月、三日月、望月、夕月
統一されなかった理由を調べてみましたが、正確な理由はみつけられませんでした。
恐らく、睦月型をはじめとした駆逐艦などに一斉命名する際、以前に使われていた艦名を再整理して継承。
しかし継承元の月名だけでは不足かつ既に和風月名以外の艦名も使用されていたため、和風月名に拘らず新しく「月名」を追加した、だと思います。
では具体的に睦月型の建造計画から命名されるまでの流れを追ってみていきます。
1. 睦月型の建造まで
旧日本海軍の艦艇名には、一定の命名基準があります。
戦艦や巡洋艦などの大型艦は旧国名や山、河川の名前が、駆逐艦には天象、気象、海洋、季節に関係のある名や、植物名などがつけられています。
1922年(大正11年)にワシントン軍縮条約が調印。その結果を受けた軍備計画(大正12年度艦艇補充計画)のなかに、睦月型駆逐艦の建造が盛り込まれています。
*1923年(大正12年)度から6年計画で計71隻が建造。
*主な新規建造艦艇は、重巡洋艦(古鷹型2隻、青葉型2隻、妙高型4隻)計8隻、駆逐艦(神風型4隻、睦月型12隻、吹雪型5隻)計21隻、水雷母艦『長鯨』や給糧艦『間宮』など。
当事は八八艦隊計画の推進により、大量の駆逐艦建造が想定されていました。そのため、艦名の選定に不備が生じないよう、駆逐艦には固有の名称ではなく「番号」が名付けられました。
『睦月型駆逐艦』も当初の名称は『十九号型駆逐艦』です。
ご存知のように八八艦隊計画は中止、艦名に余裕ができたことから、後日改めて固有名称が付けられることとになりました。
2. 睦月型への艦名継承
前述の通り、1928年(昭和3年)にそれまで番号名だった駆逐艦たちの一斉改名が行われました。
対象となったのは以下の駆逐艦たちです。
- 神風型(二代目):9隻
- 睦月型:12隻
- 吹雪型:11隻(綾波まで。敷波以降の13隻は初めから固有名称)
- 若竹型:8隻
固有名称の継承元になったのは、主に『神風型(初代)』駆逐艦です。
その前級の『雷型』『東雲型』『暁型』『白雪型』『春雨型』で使われていた名前も使用されました。
『神風型(二代目)』は「風」、『睦月型』は「月」を、『吹雪型』は「雪」「雲」「波」「霧」などがつく艦名を継承しています。
- 神風型(二代目):全て神風型(初代)からの継承7隻と、新規命名2隻(旗風、朝凪)
- 吹雪型:雷型~神風型(初代)からの継承19隻で、新規命名は5隻(深雪、敷波、夕霧、天霧、狭霧)
- 若竹型:全て植物名由来の名前で、前級からの艦名継承なし
吹雪型の次級『初春型』は、昭和6年度からの第一次海軍軍備補充計画(通称①計画)で建造されました
3. 継承名と新規命名の整理
『睦月型』が神風型(初代)から継承したのは7隻、日露戦争時にロシアから鹵獲・戦利艦として日本に編入した艦から継承したのが2隻、残り3隻は新規命名の計12隻です。
- 神風型(初代)から継承:弥生、如月、三日月、卯月、水無月、長月、菊月
- ロシア鹵獲・戦利艦から継承:皐月、文月
- 新規命名:睦月、望月、夕月
神風型(初代)は日露戦争に備え、明治37年度計画で25隻、明治38年度計画で4隻、明治39年度計画で3隻の、合計32隻という大量建艦が行われました。
追加建造された7隻は、「●月」の4隻(卯月、水無月、長月、菊月)と「●波」の3隻(浦波、磯波、綾波)で、建造時期によって艦名は統一されていますが、大部分を占める最初の25隻には統一性が見られません。
神風型(初代)で使われていた「月名」は、全て睦月型に継承されています。
では、神風型(初代)の「月名」に、和風月名が全て登場しなかった理由を見ていきましょう。
1. 『睦』『葉』の字を避けた
まず、1月の『睦月』を避けた理由として、明治天皇の諱が『睦仁』だったため、「睦」の使用を避けたという説。8月の『葉月』も同様に、明治天皇の側室だった葉室光子の『葉』を避けたという説があります。
神風型(初代)の建造時期は明治時代ですので、神風型(初代)命名時にこの2つの名前が使われなかった理由としてはあり得ると思います。
2. 縁起の悪い月名を避けた
8月の『葉月』=紅葉が進んで葉が落ち月、「葉落ち月(はおちづき)」が略されたという説や、10月の『神無月』=神が不在の月で縁起が悪い、といった説があります。
ただ神無月が「神無」のために敬遠されたとすると、同じ解釈が当てはまる『水無月』は使われているため、この説を採用するには説得力に欠けると思います。
「神無」を「神が不在」と解釈するのは俗説。「無」は「の」を意味する連体助詞「な」で、「神の月」になります。水無月も同様に「水の月」とする説が有力のようです。
ちなみに『葉月』『霜月』の2隻は秋月型防空駆逐艦として計画・命名されました(霜月は7番艦として竣工、葉月は途中で建造中止)。
計画すらなかったのは『神無月』『師走』の2つです。
3. 有名だった『三日月』を採用した
神風型(初代)の初期建造艦25隻中、月名を冠する艦は『弥生』『如月』『三日月』の3隻です。
弥生と如月は命名日が2月15日。『如月』はそのまま2月の旧暦として、『弥生』は次月(3月)の旧暦を採用した可能性はありそうです。しかし如月・弥生と一緒に命名されたのは『三日月』、和風月名ではありません。
江戸時代以降、当時も山中鹿介の生涯を描いた『三日月の影』という作品が有名だったそうで、昭和12年~20年までの8年間、尋常小学校の教科書にも採用されたほどでした。そのため、「月齢名」よりもこの『三日月』から採用した説があります。
ちなみに追加建造の4隻中3隻は、命名日の旧暦が使用されています(『水無月』『長月』『菊月』。菊月は長月の別名)。『卯月』だけ建造時期と旧暦が一致しません。
『如月』~『長月』『菊月』までの和風月名で、空いていたのが『卯月だけ』だったから、でしょうか。
4. 『皐月』『文月』は使えなかった
1905年(明治38年)、日露戦争の鹵獲・戦利艦としてロシアから日本に編入された駆逐艦5隻のうちの2隻に、『皐月』『文月』と命名されました。
両艦とも神風型(初代)の大建造時期の真っ只中に編入・命名され、除籍はともに1913年(大正2年)4月1日です。
神風型(初代)には重複のため使えず、「月名=和風月名」で統一感を持たせることができなかったのです。
むしろなぜ、『皐月』『文月』の名前を神風型(初代)ではなく、鹵獲・戦利艦のこの2隻に使用したのか、でしょう。
(鹵獲戦利艦のあと3隻は、文月の同型艦『山彦』、敷波型駆逐艦『敷波』『巻雲』です)
- 初代『皐月』:元はブイヌイ級駆逐艦『ベドーヴイ』
- 日露戦争時にロシアから鹵獲した戦利艦。1905年(明治38年)6月6日に「皐月」と命名
- 1913年(大正2年)4月1日除籍
- 初代『文月(山彦型2番艦)』:元はソーコル級駆逐艦「シーリヌイ」
- 1905年(明治38年)1月1日、旅順で沈没状態で捕獲され、同年9月2日に「文月」と命名
- 1913年(大正2年)4月1日除籍
4. まとめ
少し強引にまとめると下記のとおりです。
- ワシントン軍縮条約調印の結果、大量の駆逐艦に命名が必要に
- 神風型(初代)以前の艦艇から継承名を整理。『睦月型』には「月名」を集約して継承
- その「月名」のなかに『菊月』『三日月』があり、「和風月名」統一は不可
- 集約した和風月名に『睦月』を加え、前半9隻は和風月名で統一
『三日月』に月齢名の『望月』『夕月』を加えて後半3隻は月齢名で統一
当時は海軍軍備計画(六六艦隊計画)が推進されており、前述の通り駆逐艦の命名候補不足が懸念されていたほどでした。日露戦争により追加建造された神風型(初代)32隻を除いた駆逐艦だけでも、既に25隻分の駆逐艦が建造されています。
神風型(初代)の命名基準に不統一さはありますが、「季節」や「天象」に関係のある名前であり、駆逐艦の命名基準から外れていません。
ワシントン軍縮条約によって艦名に余裕ができましたが、もともと睦月型(というか駆逐艦の同型艦)を「和風月名」で統一する予定はなく、『たまたま睦月型の建造数が月数と同じ12だった』と。
既に使われいた「月名」を使い、新しい名前も加えて選定する中で、ある程度の統一感や美しさ、縁起を担いだ結果が、睦月型駆逐艦に名付けられた名前になったと思います。
事の真相は、神風型(初代)命名時の海軍大臣(第5代 山本権兵衛さん)と、睦月型命名時の海軍大臣(第12代 岡田啓介さん)に聞いてみないとわからないですけどね。
<駆逐艦の名称決定者(当時)>
*神風型(初代)の命名時は、海軍大臣が複数の候補艦名を選定・提出し天皇が決定
*睦月型命名時は、戦艦、巡洋戦艦、巡洋艦以外の艦船の命名は海軍大臣に委任