太平洋戦争の序盤から終戦まで活躍した旧日本海軍の陸上双発爆撃機「一式陸攻」(一式陸上爆撃機)。双発機としては長大な航続距離を武器に、広大な太平洋を戦い抜きました。
活躍の一方、防弾性能の低さから『ワンショット・ライター』という不名誉なあだ名を戴くことになりましたが、その事実について損害が大きかった幾つかの海戦をもとに、簡単な振り返りと自分なりの考察を行ってみようと思います。
諸元や性能
名称
皇紀2601年(西暦1941年、昭和16年)に制式採用されたため、「一式陸上攻撃機」と命名。
略称の「一式陸攻」の読み方は、「いっしきりくこう」ではなく「いちしきりっこう」だったらしい(?)
連合国側のコードネームは「Betty」(ベティ)。これは有名な話ですが、なんでも命名に携わっていた情報部のとある軍曹のガールフレンドの名前で、機体の左右にある大きな膨らみが軍曹に彼女の身体的特徴を思い出させたそうです。
「葉巻型(英語ではフライングシガー)」というあだ名も言い得て妙、見るたびに葉巻にしか見えないですねw
諸元
一式陸攻のスペックを同世代機の「B-25 ミッチェル」と比較してみました。
(零戦は性能ではなく、参考までに大きさ比較です)
一式陸攻とB-25を比較すると、一式陸攻はB-25より高高度まで上がれるものの、一回り大きい機体サイズや「ペイロード(爆弾搭載量)が約半分しかない」ことがデメリットでしょうか。特に後者のペイロードは爆撃時の破壊力に大きく影響が出そうです。
偵察時の航続距離は流石の長さですが、爆撃時の航続距離はそれほど変わりませんね。
B-25だけではなく、零戦(増槽付き)ともさほど変わらないということは、性能上の限界ではなくて運用上の制約だった可能性があるかもです。
活躍
一式陸攻のデビューは中国戦線でした。九六陸攻に変わって登場した当機は、高度7,000m~8,000メートルの高度を飛行することができ、零戦の護衛も加わったことで、
一式陸攻は、太平洋戦争最初期の南方作戦成功に導いた立役者です。
開戦劈頭、九六式陸攻と協同して台湾からフィリピンのアメリカ陸軍航空基地を空爆、天候を味方につけたことも大きく理想的な成果を収め、序盤でその航空戦力を壊滅。
その後のダバオ攻略部隊は大きな被害を受けることなく上陸・占領することができ、フィリピン攻略作戦も予定通り進捗しました。
マレー沖海戦では、こちらも九六式陸攻と協同してイギリス東洋艦隊を空襲。
敵直掩戦闘機が皆無&敵護衛艦も少なかったこともあり、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」の2隻を撃沈します。
これは「作戦行動中の戦艦を航空機で沈めることができる」ことを証明した初めての海戦でした。
これにより東洋艦隊はインド洋に後退し、マレー方面の攻略作戦を進めることができました。
第一段階終了後は南太平洋方面へ活動の場をシフトさせますが、その構造の問題に起因する防弾性能の低さから被害が増加、特に雷撃時に顕著だったそうです(雷撃時の損害の大きさは一式陸攻に限定した話ではありません)。
とはいえ、護衛戦闘機の数を揃え、良好な高高度性能と防御火力を活かした高高度爆撃を行えば、損耗率を比較的抑えることも可能でした。しかし、大戦中盤以降は護衛戦闘機どころか本機も十分な出撃数を揃えることができず、真っ向からの雷爆撃を行うことができなくなっていきます。
戦争終盤には特攻兵器「桜花」の母機としても使用され、甚大な被害を受けています。
ワンショット・ライターとは?
インテグラルタンク
一式陸攻の特長として、「インテグラルタンク」の採用があげられます。
インテグラルタンクとは、飛行機における燃料タンクの形式のひとつで、一式陸攻では「主翼内の一部を燃料タンク」とすることで、4,000kmを超える航続距離を得ることに成功しました。
しかし、主翼内に燃料タンクを搭載することは被弾時に弱く、「一掃射で炎上する」ことから「ワンショット・ライター」のあだ名がつけられてしまいます。
「ワンショット・ライター」のあだ名は誰が(どちらの陣営で)使われていたのか、また本当に炎上しやすかったのかは諸説あります。
インテグラルタンク内に防弾ゴムを装備するなど、1943年(昭和18年)から防弾性能を向上させた機体に切り替わっています。
ここでは、一式陸攻の損害が大きかった幾つかのケースを幾つか振り返ってみます。
太平洋戦争:序盤
1942年(昭和17年)2月20日に生起した「ニューギニア沖海戦」(「ラバウル沖航空戦」の呼称も)を見ていきます。
索敵攻撃で出撃した一式陸攻17機が、13機撃墜、2機不時着、帰還機は僅か2機という大損害を受けました。
これは空母「レキシントン」を中核とする第11任務部隊(空母機動部隊)に、護衛戦闘機なしの丸裸状態で出撃させたことが主要因とされています。
敵艦隊接敵前から投弾終了・離脱後も敵戦闘機の迎撃を受け続けており、防弾性能の有無に関わらず被害甚大になると思います。
1942年(昭和17年)に発生していた「ガダルカナル攻防戦」の一幕です。
9月27日、9月28日と連日爆撃任務に従事・損害を受け、ラバウルの陸攻が作戦行動不能に陥りました。
- 27日、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への爆撃
一式陸攻18機(うち1機引き返す)、零戦38機が発進し、計55機で爆撃を実施
敵戦闘機12機の迎撃を受け、一式陸攻は全機被弾するも、被撃墜2機、不時着2機で、残り13機はラバウルに帰投 - 28日、同様にガダルカナル島ヘンダーソン飛行場への爆撃
一式陸攻27機(うち2機引き返す)、零戦42機(うち2機引き返す)が発進し、計65機で爆撃を実施
敵戦闘機約40機の迎撃を受け、一式陸攻は全機被弾するも、被撃墜5機、不時着2機で、残り18機はラバウルに帰投
一式陸攻の稼働機が壊滅状態に陥ったのは事実ですが、「ワンショット・ライター」と評されるほど撃墜されておらず、被弾後も長距離を飛行し、ラバウルまで帰還しています。
参考文献:戦史叢書 第83巻 p149
太平洋戦争:中盤
防弾ゴムを装備した以降は、既に制空権が確保できる状態ではなくなっていきます。
1943年(昭和18年)11月21日より始まった「ギルバート諸島沖航空戦」を見ていきます。
11月21日、一式陸攻14機がルオット島から出撃し、空母「エセックス」「エンタープライズ」、軽空母「ベロー・ウッド」を中核とする軍第50.3任務群を攻撃。
こちらも護衛戦闘機なしの状態だったため、7機が未帰還機となっていますが、半数の7機は帰還しています。
参考文献:戦史叢書 第62巻 p475-476
太平洋戦争:終盤
前述の通り、終盤はより爆撃機としての任務自体が失われていき、最期は特攻機「桜花」の母艦として運用されます。
1945年(昭和20年)3月21日、第七二一海軍航空隊(通称「神雷部隊」)より、野中五郎を指揮官とした第一次神雷桜花特別攻撃隊が出撃します。
一式陸攻18機(桜花15機)、護衛の零戦30機で出撃するも、敵戦闘機の迎撃を受けて陸攻隊全滅、零戦10機未帰還、戦死者160名の損害を受けます。
野中五郎大佐の「湊川だよ」を始め詳細は割愛しますが、アメリカ軍が撮影したガンカメラの映像がいまも残っています。
この映像の通り、一連射で炎上するどころか耐えて飛行を続けており、「ワンショット・ライター」どころか堅牢な印象を受けました。
閲覧注意:桜花を搭載した一式陸上攻撃機 カラー映像
ちょっと豆知識①
インテグラルタンクに対するイメージはあまり良くないように思われがちですが、今日のジェット旅客機の燃料タンクはほとんどインテグラルタンクを採用しています。
軍事利用するには防弾性から不向きですが、軽量かつ大容量のタンクで燃料搭載効率(胴体スペースを他に活用できる)も良いことから、民間利用には適しています。
最後に
登場当初は確かに防弾性能に難があった可能性は事実だと思います。
しかしながら、損害が大きくなったケースは護衛戦闘機がつかない状況など、一式陸攻でなくでも被害が大きくなった可能性があります。
防弾性能が向上した後は、確かに作戦行動が不可能になる損害を受けるケースもありますが、被弾・修理などのために即日の作戦行動不可であり、撃墜されての部隊壊滅ではないこともうかがえます。
加えて、質・量ともに劣勢の中でも帰還機が多かったことから、『ワンショット・ライター』と言われるほど被撃墜率が高かったようには見えません。
一式陸攻だけでなく、爆撃機の消耗率は他の主要参戦国においても決して低い水準にはなかったと思います。
より堅牢な「B-17 フライングフォートレス(空飛ぶ要塞)」を始め、ドイツ戦線でも大きな損害を受けています。
現在の主流は「一式陸攻の防弾性が低く、ワンショット・ライター」ですが、最近は誇張されていたのではないかと再検討する研究がされており、本機の名誉が挽回される日を心待ちにしています。
左下を飛行している一式陸攻のパイロットが「高橋 敦(たかはし あつし)」さん。
つい最近までパイロットをされていたということ、今回調べているなかで知り、めっちゃびっくりしました!
残念ながら2021年12月7日に逝去されたとのこと、ご冥福をお祈りします。